MUSIC

INVISIBLE VISIONS

音とビジュアルの関係を今一度考える

Text: Pat Noecker / Video: Sofy Yuditskaya / Translation: Kana Ariyoshi

数ヶ月前のある夜、ブルックリンを拠点にアクティブに活動するミュージシャンのパット・ノーカーに、PERISCOPEに寄稿しないか声をかけた。パットは、過去5年ほどの間に、音楽のショーにおけるビジュアル要素と、アートショーにおけるライブ・ミュージックがあまりに当たり前になりすぎて、音とビジュアルが互いにマイナスの効果を及ぼしているのではないかという話をしてくれた。目に見えない音、音楽という存在を、目に見えない存在のままにしておくことが、聴くという行為をより深い体験にしてくれるのではないかと。そのあとしばらく、実験的に、音楽のショーに行くたびに目を閉じてみた。すると、自分の体の器官の鼓動が音の一部になったような気になり、自分がよりアクティブな聞き手になるような気がした。PERISCOPEはビジュアル志向の媒体である。パットのエッセイにどんなビジュアル要素を用意するか議論するうちに、ビジュアル・アーティストのソフィ・イディスカヤが、目を閉じて音を聴く体験を「再現」するために、パットが演奏したピアノの楽曲のために作ったビデオを、モノクロ化してくれた。パットのエッセイは、マニフェストではないけれど、音楽環境をミニマル化することで、音とアートを分離することの必要性に焦点をあてようとする一個人の試みであり、外へ外へと拡大してきたアメリカ文化が今、再び内側に、より内省的になっているのではないかという考察である。

最近、音楽という文脈におけるビジュアル・アートと、サウンド・アートのショーについてよく考えている。ここ数年の、とりわけブルックリンにおける音楽とアートの関係性は、ますます相互依存的になっていて。つまり、“音楽”のショーをやるならそこに“アート”を、“アート”のショーをやるなら“音楽”を取り入れなければならない状況になってきた。
強烈な刺激を与えることを目的としたショー環境が当たり前になり、オーディエンスを別の世界に連れていくために、必要なこととされているようだ。でも本当にそうなのか、このところ疑問に思うようになってきた。
ある意味、音楽、アート、サウンドの相互依存は、僕らが置かれている今の現状、または少なくとも僕自身の、ミニマムな環境に対する抵抗、派手派手しいことに対する中毒、ハイパーアクティブな要素の必要性を示しているような気がする。けれど今、自分自身のスタイルを再び調整するなかで、外的要素に頼らずに、基礎を内面へと回帰しているように思う。おそらく、こうした僕のこの状態は、インターネットを基本とした行為、そして特にそれによる目に見えないコネクションに重きを置く、一般市民のより大きな欲求を反映しているかもしれない。もっといえば、ここ数十年間ツアーをしてきた経験から、自分自身は今郊外より都会の暮らしにひかれている。社会は、外へ外へと動いてきた前世紀の郊外モデルから、再び方向性を内側に変えようとしているように思える。僕のなかで起きているクリエイティブ革命を、他者が共有してくれるか、また単に自分だけの内省的な事象なのか、興味がある。自分は暗部のなかに入り込み、何も見えないときにあるのは、耳をすますことだけだと認識するようになった。そして、すべてを目に見える存在にしようとする行為はそろそろ終わりにしてもいいという誘惑にかられている。
目に見えないものは、目に見えないままにしておく。さらすのではなく、暗がりに使徒の役割を預けよう。
どうやってここまできて、なぜアートと音楽の相互依存が薄れてきているか自問するようになったか説明しよう。アートと音楽が、お互いを消しあうようになってしまったのだとしたら、今の世の中の現状を説明できることになるかもしれない。
まず、最初に音楽のビジュアル化に興味を持つようになったのは、カンディンスキーの「Concerning the Spiritual in Art」を読んでからだ。読者を音楽の“もうひとつの側面”、ビジュアル的な側面への思考に導いていく本だ。僕は1900年代初めにミュンヘンでビジュアル・アートと音楽の関係性を探る活動をし、カンディンスキー、クレー、ロシア人写実主義者のマリアンネ・フォン・ヴェレフキンといった抽象表現主義者たちをフィーチャーした「Der Blaue Reiter(青騎士)」について調べた。カンディンスキーが「The Yellow Sound」という作品の色調で表現したように、僕はサウンドの表現方法をイメージして創造していくプロセスに夢中になった。そうやって突き詰めていくなかで、いかなる表現も正しいということはなく、いかなる解釈も間違っているということはないと学んだ。体験は、受け手ひとりひとり異なるからだ。そして、ビジュアル化のプロセスは、暗闇に光を差し込もうとする個人的な欲求の現われだと考えた。これに対して、僕は今、光に向かって暗がりを導きたい。音楽の見え方にフォーカスしたい、あるいは、少なくとも何かしらの形を与えたいという思いが表面化したものだと。そして当時、音楽の見かけにフォーカスする、または少なくとも、音楽に顔を与えるという力が存在した。それに加えて、当時の政治的な要因も少なからずあった。8年間のブッシュ政権がようやく終わりを迎えるころで、軍事的な思惑から植民地的な政策を進めるような大統領のせいで、アメリカ人であることがどこか恥ずかしいと感じるような世の中だった。そうした社会情勢がアーティストたちをインスパイアし、突き抜けた表現方法を生み、新たなリアリティを作り出したマルチメディア・エクスペリエンスを表現するための手段として音楽が活用された。つまり、ミュージシャンやアーティストたちは、“ショー”での体験を、より刺激的に、そしてビジュアル化しようとしたのだ。
そして2007年に、ディーズ・アー・パワーズの2枚目のLP「All Aboard Future」のリリース・パーティーを開いたとき、50人のアーティストにアルバムのタイトルと曲をベースにビジュアルを制作してくれないかと頼んだ。ビジュアル・アートで音楽の持つ新たな一面、それこそ目に見えない部分を可視化してほしいと思った。(でも形になってしまえば、目に見えなかった部分は消え去ってしまうのだが)こうした取り組みは、バンドの活動期間中、コンスタントに続けていた。アーティストのあふれるクリエイティビティが見せつけてくれる世界に見飽きることはなかった。
今、振り返ってみると、映像やインスタレーション、あらゆる媒体を使って新たな次元を表現しようとしたアーティストたちの試みは、目に見えないものを目に見えるようにしたいという欲求によるものだったと思う。ツイステッド・ワンズ、なかでもいつもオープンリール式のプロジェクターを操作していたシークレット・プロジェクト・ロボットのエリックを除けば、2007年から今日までと1999年~2002年とを比べてみると、当時、ショーにインスタレーションやアートが取り入れられることはほとんどなかった。ついでに言うと、9.11への反動なのか、ショーでほかに刺激的な媒体がなかったからなのかはわからないけれど、当時のエネルギーは半端なかったし、よくショーのあとには血がドクドクするのを感じていた。
自分は変わり、時代は変わり、自分のメディアも変わった。
今、携帯電話を使って、インタラクティブな音楽のショーをやり、自分のことをセルフォニストなんて呼んでいる。自分で作った造語だが、レコードプレイヤーを改造したターンテイブリズムからヒントを得た。携帯電話で演奏しながら、オーディエンスとつながって、オーディエンスが僕を経由して共有のポータルに入っていく、そここそが目に見えない場所であることに気づいた。最近、ヘルパー・ギャラリーで演奏したあと、僕から発信されたり、オーディエンスから僕に発信されるあらゆる電波のイメージを頭から振り払うことができなかった。結局、目に見えないもの、もっと言えば、目に見えないつながりこそがショーのハイライトだった。携帯電話でのショーの間、パフォーマーとして、オーディエンスへデータを渡してしまえば、僕は目に見えない存在となる。単なるポスト・プロダクションのひとつに過ぎない。僕は自分のiPhone 4Sの画面に指を走らせ、ショーで内面を表現していく。
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10.09.2013

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